先週末、神戸製鋼が今季強いと評されるヤマハから二勝目を挙げた。僕が神戸に移り住んだきっかけはほぼ平尾さんで、神戸製鋼の躍進と重ねて、今の僕があると言っていい。このチームには、選手やファンの「神戸」という呼称がある。これが大きい。
さて、
2020年1月17日。
節目ではあるが区切りだとは思えない25年。忘れてはいけない、風化させてはいけないとSNSや報道では、普段見ないほどの活字の量とニュースに溢れかえっていた。
同じように僕が書くかと言えば、罹災証明も取ってそれなりの被災体験はあったが、家や会社が潰れたとか、家族や友人を失ったとか、そこまでのことはない。だから、 見聞きしたことをさも自分の体験のように吹聴するのもどうかと思うし、でも少し思うところもあるので、当日じゃなく日をずらせて書いてみる。
……………
元々神戸に縁もゆかりもない僕だから、当時一人でいた部屋が幸いした。むしろ、山の上のマンション13階にいると余震がひどく建物がきしむのでじっとするのが怖く、止まったエレベーター横の非常階段で降りて、まだ暗い外、すぐさま車に飛び乗った。ラジオの情報が欲しいのと、年末に別れた芦屋に住む彼女の安否が気になったからだ(ラジオは大した報道もなく、車も須磨のインターから入れずUターンを促された)。まだ暗い道にヘッドライトに照らされた、リードのついたままの高級犬種が何頭も横切った。明るくなり始めた国道に向かうと、途中のアスファルトが盛り上がり剥き出しのガス管から臭いがし断念した。
神戸の震災は確かに、様々な人生を変えた。京都に帰って来いと家族や仲間から言われたりもしたが、3月くらいまで大学の先輩の会社を手伝ったり(押し潰れたビルから商品を取り出しただけだけど)安否がわからない知人を探したりすることで、余震のある一人の部屋の不安を少しでも拭っていた。
……………
あれから25年。それは僕にとっての開業25年でもある。
周りにはどうでもいいことかもしれないが、神戸で地震が起きてマチが整備された後にやって来たのではなく、神戸にいて震災に遭い、4ヶ月ほど掛けて(建築資材や職人を西日本から調達したゆえに)その年8月にこの店は始まった。
神戸に認められていないと未だに思う。ただあの渦中、神戸にいたことは意義深いと言い聞かせている。受け入れた覚悟は、余裕のある状況からの開業とは違い、少なからずこのマチやヒトとの共通項を持ちそこで黙々と足跡を残すことを選ばせてくれた。
その場所は路地裏であっても、僻地ほど足跡は色濃く映る。
雑踏では見つけにくいものがこの場でソクセキとなった。
チカラに変える方法はいくらでもあると知ったのだ。